「字のない葉書」の授業[5]吟味よみ-作品を再読し、主体的に評価する[板書案]

「字のない葉書」の授業[5]吟味よみ-作品を再読し、主体的に評価する[板書案]
今回の教材:「字のない葉書」向田邦子 作
【国語中1〜中2教科書 掲載/光村図書出版ほか】
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前回は、山場の形象や技法を捉え、主題へと迫りました。
最後にこれまでの読みを生かし「字のない葉書」を再読し、主体的に評価していきます。

▶︎「字のない葉書」の授業 全五回 [1] [2] [3] [4] [5]

今回は「吟味よみ」段階にあたります。未読の方は、先に「物語の新三読法について」と「吟味よみの授業」をご覧ください。

「字のない葉書」を吟味・評価する

 「字のない葉書」の単元の最後には、これまでの読みを生かして、子どもたちが改めて作品を再読し、作品を評価していきます。
 そのための指導の手立てを3つご紹介します。

1.題名の持つ効果を吟味する

 この作品の「字のない葉書」という題名の持つ効果について吟味していきます。
 「字のない葉書」という題名は謎かけ的要素を持っています。読者は「字のない葉書」とはなにか?と不思議に思いながら読み進めることになります。
 この作品のクライマックスは、「字のない葉書」をきっかけに目にした父の衝撃的な姿です。読者は葉書の話かと読み進めるとまったく想像していなかったところにクライマックスが設定されていることにも驚かされます
 授業では、作品のタイトルが異なるものだった場合と比較して考えてみます。

発問例

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この作品の「字のない葉書」という題名がもつ効果について考えてみよう。
もしこの作品タイトルが、「忘れられない思い出」とか「父の号泣」だったらどうだろう?

2.「私」の父への見方をどう評価するか

 クライマックスで「私」は父の全く意外な一面を発見します。そして、その父親の姿は31年経っても心に残っています。31年後の「私」は父の姿を肯定的・感動的な思い出として本作で書いています。それが次のような主題に収斂されていることを山場の形象よみで読みました。
 この授業では、再度それらの主題を確認した上で吟味を進めていきます。

  1. よく知る存在(家族など)でも、普段とは全く逆の一面を発見をすることがある
  2. 感情が大きく揺さぶられる経験は、何十年経っても記憶に残り続けることがある。

 事件から31年経った「私」の父へ肯定的な見方を読者としてどう評価するか、共感できるか・できないかを考えます。
 子どもたちからは例えば次のような見方が出される可能性があります。

肯定的な評価として考えられるもの

  • 父親には暴君的な側面もあったかもしれないが、「私」も大人になり、父親の不器用さや家族への深い愛を改めて理解し、父親の多面的な側面を受け入れた。その「私」の姿勢に共感できる。
  • 父が亡くなった今、「私」は父との思い出を美しく感動的なものとして意味づけておきたかったのではないか。その思いに共感できる。
  • 父の家族に対する封建的な態度は、時代的にも「私」や家族にとってはめずらしいものではなかったと考えられる。父親もそのような強い父親像でしかいられなかった可能性がある。だからこそ、涙して弱さをみせる父の姿が「私」には衝撃であった。決して美談として描いているわけではない。

否定的な評価として考えられるもの

  • 仮に戦前・戦中はありふれた父親像だったとしても、母や子どもたちに手をあげるような父親に、「私」も家族も怒りを感じていたはずである。31年経ち、父も亡くなり時間が経過したからといって、父のエピソードを美談として描くことには共感できない。
  • 「私」の父への描き方は几帳面・照れ性・妹への愛情といったものだけでなく、暴力的な側面も人間性の一つのように描き、すべてを受け入れているようにみえる。そういう曖昧で包括的な捉え方には納得できない。
  • ときに深く子供を愛しているような姿を見せたとしても、普段の家族への暴君的態度が相殺されるわけではない。「私」の描き方は、父は本当は家族を愛しているのだからと暴君的態度も許容しているようにも感じてしまう。

発問例

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「私」は31年経った今、父親のことを肯定的に捉えているようだね。
その「私」の見方に共感できる?できない?

3.語り手が三人称客観視点であったら

 「字のない葉書」は一人称で書かれています。もしそれが三人称客観視点(人物の心に入らない三人称視点)の語り手だった場合、この作品がどのように変わってくるのかを考えてみます。授業では、実際に先生が作品の一部を選択し、三人称客観視点でリライトし、提示するとよいと思います。
 たとえば、この作品のクライマックスに着目してみます。次がオリジナルです。

茶の間に座っていた父は、はだしで表へ飛び出した。防火用水桶の前で、やせた妹の肩を抱き、声を上げて泣いた。私は父が、大人の男が声を立てて泣くのを初めて見た。

 これを、三人称客観視点に変えると次のようになります。

茶の間に座っていた彼女の父は、はだしで表へ飛び出した。防火用水桶の前で、やせた妹の肩を抱き、声を上げて泣いた。彼女は父が声を立てて泣くのを驚いた表情で見ていた。

 三人称客観視点だと、この出来事が「私」にとってどういう経験であったかは知り得ないことになり、それを語ることができません。この作品にとって重要な鍵となる「私は父が、大人の男が声を立てて泣くのを初めて見た。」を示すことができないのです。「初めて見た」「大人の男が」がないことで、作品の主題の捉え方も変わってきます
 クライマックス以外の箇所を取り上げることもできると思います。

発問例

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この作品は一人称の語り手だね。それが効果を上げている。
もしこれが仮に三人称の語り手だったら、それも人物の心の中に入ることのない客観視点だったらどうかな。比べてみよう。

「字のない葉書」の吟味を行う板書案

 2.「私」の父への見方をどう評価するか、を板書に落とし込むと次のようになります。

 

 拙著『物語・小説「読み」の授業のための教材研究 ―「言葉による見方・考え方」を鍛える教材の探究―』では、「字のない葉書」のさらに詳細な教材研究を掲載しています。ぜひご覧ください!

掲載教材:「少年の日の思い出」「字のない葉書」「故郷」「スイミー」「お手紙」「一つの花」「大造じいさんとガン」「海の命」

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「字のない葉書」の授業を最後までお読みいただき、ありがとうございました!

📕注:本文は、中学校国語教科書『国語2』(光村図書出版,2016年)による。

執筆者

国語科教育研究者
国語の教師・国語科教育研究者として、40年にわたり国語授業の研究・実践を行う。全国各地の小・中・高校や教育委員会等を訪問して授業の助言・指導や講演を行なっている。