俳句「閑さや岩にしみ入蝉の声」教材研究と授業ポイント—「蝉の声」がするのに、なぜ「しずか」なの?

俳句「閑さや岩にしみ入蝉の声」教材研究と授業ポイント—「蝉の声」がするのに、なぜ「しずか」なの?
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今回は、松尾芭蕉の有名な俳句「閑さや岩にしみ入蝉の声」の教材研究を取り上げます。

この俳句は、小学校三年生の国語教科書(光村図書出版・東京書籍など)に掲載されていますが、小学校高学年、中学校・高校の投げ入れ教材としてもおすすめです。授業びらきにも適しています。
この俳句の授業を通して、さまざまな読むための方法を指導することができます

Youtubeでも詳しく紹介しています。動画でご覧になりたい方はこちらをご覧ください。

俳句「閑さや岩にしみ入蝉の声」とは?

 「閑さや岩にしみ入蝉の声」この俳句は、松尾芭蕉(1644年~1694年)の紀行文『おくのほそ道』に入っています。
 『おくのほそ道』は、芭蕉が弟子の曾良(そら)を伴って、1689年(元禄2年)年から1691年(元禄4年)に奥州などを旅した際の紀行文です。芭蕉の死後、1702年(元禄15年)に刊行されました。

 この俳句は、山形県の立石寺(りっしゃくじ・作品の中では「りふしやくじ」)に弟子の曽良と訪れた際の文章の中に位置づけられています。芭蕉と曽良は、7月上旬(旧暦5月27日)に立石寺を訪れたと言われています。

「蝉の声」がするのになぜ「しずか」?俳句のなぞ

 この俳句には、大きな「なぞ」があります。

 それは「『蝉の声』がするのになぜ『しずか』なのか?」ということです。
 7月上旬であれば、おそらくは蝉の声は一匹や二匹ではなく、たくさん聞こえていたはずです。にも関わらず「閑さ」

「閑」(しずか)と「蝉の声」という対比に読者は戸惑いや疑問を感じます。

  「蝉の声」が「岩にしみ入る」というのも考えてみると不思議です。

 物理的には、蝉の声というのは岩に跳ね返されるはずです。
 「岩」と「蝉の声」という一見対比的に見えるもの、それが「しみ入」という関係になっています。

学習課題の設定と授業での3つの取り上げ方

 授業では、上記の疑問をそのまま学習課題として設定するのがよいと思います。

蝉の声がするのに、なぜ『閑さや』なんだろう?その秘密を解き明かそう!


 もちろんさまざまな学習課題があっていいのですが、この課題が小学校でも中学校でも高校でも重要な課題として位置付けやすいと思います。

 紀行文ですので、この俳句には直前に文章があります。それにかかわり、この俳句を授業で取りあげる際には次の3つの方法が考えられます。

  1. この俳句だけを取り上げる方法
  2. 俳句と直前の文章をあわせて読んでいく方法
  3. 俳句を読むことを中心にしながら必要に応じて直前の文章を参照する方法

 今回は3.の直前の文章を参照しながら俳句を読んでいきたいと思います。

俳句「閑さや岩にしみ入蝉の声」直前の文章

 次が俳句の直前の文章です。

山形領に立石寺りふしやくじいふ山寺あり。慈覚大師じかくだいし開基かいきにして、ことに清閑せいかんの地なり。一見すべきよし、人々のすゝむるによりて、尾花沢よりとつて返し、其間そのかん七里ばかりなり。日いまだくれず。ふもとの坊に宿かりおきて、 山上の堂にのぼる。岩にいはほを重て山とし、松柏年旧しようはくとしふり土石どせきおいこけなめらかに、岩上がんじょうの院々扉をとぢて物の音きこえず。岸をめぐり、岩をはひて、 仏閣を拝し、佳景寂寞かけいじやくまくとして心すみゆくのみおぼゆ。

しづかさや岩にしみいる蝉の声

現代語訳
山形領に立石寺という山寺がある。慈覚大師が開いた寺で、非常に清閑な地である。一度は見るといい、と人々がすすめるので、尾花沢より引き返し、その間は七里ほどである。日はまだ暮れていない。梺の宿坊に宿をかりておいて、山上の堂にのぼる。岩にまた大きな岩が重なり山となり、松や檜は年月が経ち、土や石も老いて苔は滑らかになり、岩上の院々は扉を閉じて、物音はきこえない。断崖をめぐり、岩を這うように、仏閣を拝み、素晴らしい景色は静まり返っており、ただ心が澄み切っていくことだけ感じられる。


しづかさや岩にしみいる蝉の声

 直前の文章には、この俳句を提示する際の語り手(虚構としての作者)の心境が詳しく書かれています。俳句を読み解く鍵となる言葉がいくつも出てきます。

 それでは、俳句を読み解いていきます。

俳句の構造を読む

 まずは、俳句の構造から読んでいきます。

 この俳句には「」という切れ字が使われています。切れ字は、その前の言葉を強調し、そこで言い切る働きをします。

 つまり「閑さや」とそれ以降の「岩にしみ入蝉の声」で分かれ分かれる二部構造になっています。

 俳句の前半では、切れ字で「閑さ」を強調しています。
 後半では、体言止めで「蝉の声」を強調しています。

 前半で強調される「閑さ」と後半で強調される「蝉の声」が矛盾するという関係がこの作品の最大のなぞであり、魅力になっています。

 それゆえに新しい発見を生み出す二部構造となっています。

「閑さ」を読む

 まず「閑さ」から読んでいきます。上でも述べた通り、切れ字「や」で「閑さ」を強調しています。

なぜ「静」ではなくて「閑」なのか

 「閑」(しずか)という漢字に着目します。なぜ「静」ではなくて「閑」という漢字が使われているのでしょうか?

 「閑」を漢和辞典や国語辞典で調べてみると次のような意味が出てきます。

【新漢語林(第二版,大修館書店,2011年)】
[字義]①のどか。のんびりしている。また、しずか。
[解字]門+木。門の間に木を置き、他からの侵入を防ぐ、しきりの意味を表す。

【新明解国語辞典(第八版,三省堂,2020年)】
邪魔な物が無く、落ち着いていること。②注目しないこと。

  新漢語林には、用例として漢詩が示されていますが、「閑」は「心がしずか」という意味で使われています。
 「閑」は、物理的な静かさというより、心のしずかさや落ち着きといった意味をもっていることが分かります。

直前の文章の「清閑」と「寂莫」とのシンクロ

 さらに直前の文章のキーワードを参照しながら、「閑」を読み深めます。(文脈的な読みです。)

清閑の地也

 「清閑」という言葉が出てきます。
 「清閑」には「俗世を離れて物静か」「俗事や世間に煩わされずに静かなこと。またその心境。」などという意味があります。この「清閑」の「閑」がこの「閑さ」と重なります。

佳景寂寞として心すみ行のみおぼゆ。

 「佳景」は良い景色、「寂寞」というのは「もの寂しくひっそりしている。」という意味です。特に「寂寞」と「閑さや」とが響き合っているように思います。

 これらを併せて読んでいきます。

この俳句で「閑」(しずか)がもつ意味

 初夏ですから、蝉が鳴いていて木の上からそれが聞こえてくる。
 蝉はおそらく一匹や二匹ではないでしょう。「ニイニイゼミ」ではないかと言われていますが、それでもそれなりの音量のはずです。

 しかし、作者は「閑さ」を感じています。それは、心のしずかさです。精神的に煩わされない、俗事に煩わされないといった、落ち着いた心境です。

 ポイントは、蝉の声は自然の一部である、という点です。もしそれほどの音量でなかったとしても、「俗事」や「世間」が作り出す音であれば、心しずかではいられなかったかもしれません。

 もう一つ言えば、全くの無音ではなく、「蝉の声」がするからこそかえって「閑」(しずか)な心境でいられる、とも読むことができるかもしれません。

「岩にしみ入」を読む

 では、「しみ入」を読んでみましょう。

「しみいる」と「しみこむ」の違い

 「しみいる」と似た言葉で「しみこむ」という言葉があります。この二つの違いに着目します。
 複数の辞書を見ると、次のようになっています。

しみこむ

【デジタル大辞泉(小学館,2018年)】①液体や気体、色などが物の中まで徐々に深くしみる。「味がしみこむまで煮る」「においがしみこむ」②心の奥底まで深く入り込み、消し去ることができなくなる。「不信感がしみこんでいる」「しみこんだ習慣」

【明鏡国語辞典(第二版,大修館書店,2011年)】液体・匂いなどが奥まで深く入り込む。「インクが紙にしみこむ」

【新明解国語辞典(第七版,三省堂,2012年)】その要素が何かの組織のすみずみまで広がり、除くことができない状態になる。「色(におい・水・思想・方針)がしみこむ」

 辞書にかかれている意味や用例をみてみると「しみこむ」は、物理的状態にも心理的状態にも使われるようです。(ただし『明鏡』は物理的な定義しか書いていません。)また、心理的に使われる場合は「心の奥底まで深く入り込み、消し去ることができな」くなるなど、どちらかというと否定文脈で使われる場合が多いようです。

 一方、「しみいる」はどうでしょうか。

しみいる

【デジタル大辞泉(小学館,2018年)】物の奥深くににじみ込む。また、心に深くしみこむ。「身にしみいるような寒さ」「胸にしみいる情景」

【明鏡国語辞典(第二版,大修館書店,2011年)】中まで深く入り込む。また、奥まで深く伝わってくる。「身にしみいる寒気」「心にしみいる話」

【新明解国語辞典(第七版,三省堂,2012年)】①しみこむ。「岩にしみいるせみの声」②接する物事からいつまでも忘れることがないほどの感動を受ける。「心にしみいる恩師のことば」

 「しみいる」は、物理的にも使われることがないわけではないようですが、多くは心理的な文脈で使われる場合が多いようです。用例も「胸にしみいる」「心にしみいる」など心理的なものがほとんどです。また、「感動」といった定義や、「心にしみいる話」などの用例を見ると肯定文脈で使われることが多いようです。

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こういった「言語の差異性」に着目することで、言葉のもつ意味の特徴や必然性が見えてきます。

「蝉の声」が「岩にしみ入」るってどういうこと?

 実際には、蝉の声が岩にしみ入ることありません。むしろ蝉の声は岩によって跳ね返されはずです。

  しかし、語り手(虚構としての作者)には岩が蝉の声をぐっと受け入れているように見える。蟬の声が、そこにじわっとしみているように感じられているということです。

 さらに、語り手(虚構としての作者)の心にも、蟬の声がしみ入っているのかもしれないと感じさせます。

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蝉の声は木の上から注いできます。それが地上にある岩に(雨などのように)降り注いで、しみていく、といった情景も見えてきます。

対比に見えるけれど、実は〇〇

 一見対比的な関係に見える「閑」と「蝉の声」
 しかし、実はこの二つは同調し調和していることが読めます。

 さらに「岩」と「蝉の声」という対立的・対比的な関係にも見える二つのモチーフも、「しみ入」ということによって調和しています。

 つまり、矛盾に見える、対比に見えるけれども、実は、調和し同調しているというこの俳句の仕掛けが読めてくるのです。

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いかがでしたか?
この俳句では、俳句の中にある矛盾と対比を読み解いていく中でさまざまな読むための方法を学ばせることができます。「構造を捉える方法」「漢字の持つ意味」さらには「言葉と言葉の関係」「差異性を生かした読みの方法」など言語の能力をつけるためにもこの俳句は有効だと思いますので、ぜひご活用いただければというふうに思います!

📕注:俳句・直前の文は、潁原 退蔵・尾形 仂 訳注『新版 おくのほそ道 現代語訳/曾良随行日記付き』(角川ソフィア文庫,2013年)をもとにした。現代語訳は本サイトによる。

執筆者

国語科教育研究者
国語の教師・国語科教育研究者として、40年にわたり国語授業の研究・実践を行う。全国各地の小・中・高校や教育委員会等を訪問して授業の助言・指導や講演を行なっている。