平家物語「扇の的」で「情けなし。」と言ったのは、平家か源氏か?
中学校古典「扇の的」のなぞ
中学校古典で扱う平家物語「扇の的」は、源義経たちに追い詰められた平家が船で海へ逃げた屋島の戦いの一場面を描いたものです。
「扇の的」のあらすじ
日暮れを迎える頃、平家が舟を一艘こぎ寄せてきます。そして、陸の源氏に向かって、この扇の的を射貫いてみなさいと手招きをします。
義経に命じられた弓矢の名人・那須与一は、見事、扇の的に矢を命中させます。
すると、与一の弓矢の腕前を讃え、ひとりの平家の武士が舞いを始めました。
しかし、義経は与一にその男を射るよう命じます。
与一は、そのとおりに男を射殺しました。
その後に二つの会話文が続き、「扇の的」は終わります。
「あ、射たり。」
と言ふ人もあり、また、
「情けなし。」
と言ふ者もあり。
「あ、射たり。」「情けなし。」は誰が言ったのか?
さて、この「あ、射たり。」「情けなし。」は、それぞれ誰が言ったのでしょうか。ふつうに考えると、
「あ、射たり。」(よく射った) →源氏側
「情けなし。」(情けのないことを)→平家側
と思えますが、本当にそうでしょうか?
それは、「語り手」が「どこから」物語を語っているかに着目するとみえてきます。
scene1:与一が神仏に祈る場面
まず、与一が扇の的を射貫けるよう、神仏に祈る場面をみてみましょう。
与一目をふさいで、
「南無八幡大菩薩、我が国の神明、日光の権現、宇都宮、那須の湯泉大明神、願はくは、あの扇の真ん中射させてたばせたまへ。
現代語訳
与一、目をふさいで、
「南無八幡大菩薩、我が国の神明、日光の権現、宇都宮、那須の湯泉大明神、願はくは、あの扇の真ん中を射させてくださいませ。
ここで語り手は、与一の心の中に入り込み、心の声を描写しています。
さらに、続く次をみてみます。
と心のうちに祈念して、目を見開いたれば、風も少し吹き弱り、 扇も射よげにぞなつたりける。
現代語訳
と心のうちに祈念して、目を見開いたところ、風も少し吹き弱り、扇も射やすくなっていたのである。
これも、あきらかに与一がそう考えたことです。
与一の心に入り込んだり寄り添ったりして
語っている。
▶︎源氏側から語っている。
scene2:扇の的に向かって矢を放つ場面
次に、与一が矢を放つ場面です。
与一、かぶらを取つてつがひ、よつぴいてひやうど放つ。(中略)弓は強し、浦響くほど長鳴りして、
現代語訳
与一、かぶら矢を取って弓につがえ、十分に引き絞ってヒョウと放つ。(中略)弓は強く、矢は浦一帯に響きほど長く鳴り続け、
「ひやうど放つ」の「ひやう」は、矢を放った瞬間の音です。
かぶら矢の「浦響くほど長鳴り」は、平家側にも聞こえていたでしょう。しかし、矢を放つ瞬間の音は、源氏側でないと十分に聞こえない音であった可能性が高いと考えられます。
矢を放った瞬間の音を近くで描写している。
▶︎源氏側から語っている。
scene3:平家の武士が舞う場面
与一を讃え、平家の武士が舞う場面の表現にも注目します。
あまりのおもしろさに、感に堪へざるにやとおぼしくて、舟のうちより、年五十ばかりなる男の、黒革をどしの鎧着て、白柄の長刀持つたるが、扇立てたりける所に立つて舞ひしめたり。
現代語訳
あまりのおもしろさに、感に堪えなかったのであろう、舟の中から年五十ばかりの男で、黒川おどしの鎧を着て、白柄の長刀を持っている者が、扇を立ててある所に立ってしっかと舞いはじめた。
「感に堪へざるにやとおぼしくて」とあります。「おぼしく」つまり「そう推測される」という表現です。
与一の心の中は具体的に描写しているのに、平家の男に対しては推量です。
また、平家の武士は舞が舞えるくらいですから、姓氏名をもっているはずです。しかし、「年五十ばかりなる男」とだけで名前は書かれていません。
源氏方は、与一はもちろん伊勢三郎義盛も、しっかりと名前が示されています。
平家とは距離をとった表現の仕方。
▶︎源氏側から語っている。
語り手は一貫して◯◯側から語っている
上記の場面をみていくと、語り手は一貫して源氏側から語ってます。
つまり、「あ、射たり。」も「情けなし。」も、源氏側の兵士たちの声とみるのが自然です。
「情けなし」が大声で発せられたとは考えにくいため、ここだけ平家側に寄り添って語ったと読むのは不自然です。
そこからなにが読めるか
射殺す行為が与一の判断・意思であったと考える者はほとんどいなかったでしょう。男を射殺す行為が義経の命令によるものであることを、源氏の兵士たちは知っていたはずです。
ということは、この「情けなし。」は源氏方の兵士からの義経批判ということにもなります。
「平家物語」には多くの異本がある
『平家物語』には異本が多くありますが、その本によってかなりプロットに差があります。ここで取り上げた光村図書出版の中学校教科書で使っている本は高野本です。それに対して、百二十句本は次のようになっています。
伊勢の三郎、与市がうしろへあゆませ寄つて、「御諚にてあるぞ。にくい、奴ばらが今の舞ひ様かな。つかまつれ」と言ひければ、中差取つてつがひ、よつぴいて射る。しや首の骨、ひやうふつと射通され舞ひ倒れに倒れけり。
源氏方いよいよ勝に乗つてぞどよみける。
平家の方には音もせず。
「情けなし。」の部分が取り上げられていません。
高野本版では「情けなし。」といった源氏の兵士がいたことを語り手があえて前面に出しているのです。
「あ、射たり。」「情けなし。」という言葉を、あえてここに位置づけ提示した語り手のものの見方・考え方も読むことができます。
このように異本を比べたり、語り手のものの見方・考え方を推理したりすることで、「平家物語」の魅力が一層際立ってきます。
拙著『読解力を鍛える古典の「読み」の授業 ―徒然草・枕草子・平家物語・源氏物語を読み拓く 』では、さらに詳しく書いています。新しい古典の授業を提案しているので、ぜひご覧ください。
掲載教材:「徒然草」「枕草子」「平家物語」「源氏物語」
📖本文は、中学校国語教科書『国語2』2020年,光村図書出版による。