朝日新聞2022年7月5日寄稿「国語の授業 道徳より言語の教育を」
「国語」という教科の始まり、国語と道徳の関わりやその問題点、国語の授業で身につけていくべき力などについて書いています。ぜひご覧ください。
国語の授業 道徳より言語の教育を
国語の授業というと、当然言語の力を育てているものと思われている。しかし、明治以来日本の国語は子どもに極めて不完全なかたちでしか言語の力を育ててこなかった。
漢字や語句・文の意味などについては、ある程度は力をつけてきた。しかし、それらは表層レベルで、それを超えて深く文章や作品を読む力、説得力ある文章を書く力、質の高い対話を行う力などは十分に育てられていない。国語が言語の教育に徹しきれていないからだ。子どもたちの「国語嫌い」もこれと関わる。
日本の国語は1900(明治33)年に始まる。当時の文部省「小学校令施行規則」に国語は「正確ニ思想ヲ表彰スルノ能ヲ養ヒ兼テ智徳ヲ啓発スルヲ以テ要旨トス」と目的が書かれている。思想を表現する能力を養うのは言語の教育だが、問題はその後だ。「智徳」つまり智恵と道徳を育てるとある。智恵はいいが、道徳の力を育てることも目的とした。その基調は戦後も続く。だから国語の授業には道徳的要素が常につきまとい、言語の教育に徹しきれない。
小学校の文学教材「ごんぎつね」(新美南吉)の読みとりで、子どもがごんに共感し次々と泣き出す授業がある。作品に共感し泣くことはよい。しかし、その授業で子どもにどういう言語の力が育ったかはほとんど問題にされない。作品に感動させつつ、質の高い物語の読み方を子どもに指導することが求められる。しかし、それが欠落していても子どもの涙だけで授業が高く評価される。
ごんは兵十にいたずらに来たと誤解されて撃ち殺される。なぜ悲劇が起きたかを伏線に着目しつつ考えてみると、複数の仮説が立てられる。前半の「おれと同じ、ひとりぼっちの兵十か」というごんの言葉に着目すれば、ごんの抱える孤独による悲劇とも読める。同じ孤独な兵十に強く共感し、誤解と偏見がある中で性急に近づき過ぎたためではないかと。これはプロローグの「ひとりぼっちの小ぎつね」ともつながる。物語の伏線を構造的に関わらせて読むことで、言語の力がついていく。
2018年高校学習指導要領・国語は「論理国語」と「文学国語」を選択科目にした。これは文学軽視を前提に設計された制度である。多くの高校が受験を考え「論理国語」を選ぶことは間違いない。文学は道徳的なもので言語の力を育てるものでないという見方が透けて見える。文学でこそ育てられる言語の力があることを見落としている。
論説や古典などの読むことの指導でも、書くことや対話の指導でも道徳が影を落としている。言語教育としての国語に直ちに変えるべきだ。
※朝日新聞,20220705,11面,投稿記事,見出し「国語の授業 道徳より言語の教育を」より転載。
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